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執筆者の写真日立キリストの教会

「それは私だ」ヨハネ18:1-6

 来週の日曜日はイースターです。なので今週は受難週と呼ばれています。明日月曜日はマグダラのマリアがイエス様に300万円もするナルドの香油を捧げました。火曜日はイエス様がユダの裏切りを預言しました。水曜日はユダが祭司長たちと銀貨30枚の約束をしました。木曜日はイエス様が弟子たちの足を洗いました。そして金曜日は十字架です。土曜日は安息日。そして日曜日にイエス様が復活しました。この1週間、教会によっては断食をしたり、娯楽などを避けて、つつましく生活したりしているようです。今日の聖句はイエス様の受難の始まりです。ヨハネが伝える恵みを分かち合いたいと思います。

祈ります。

「恵み深い父なる神様。今日も私たちはあなたの前におります。イエス様の受けた苦しみを考えます。どうぞあなたの深い御心にふれることが出来るように、聖霊の導きをお願いします。イエス様のなさったことが、すべて意味があり、恵みがあり、私たちへの愛であることを知ることが出来ますように。イエス様のお名前を通して祈ります。」

 受難は当然4つの福音書に書かれています。でもヨハネは特別です。イエス様の逮捕を詳しく書き残しました。ヨハネはこの逮捕の時のイエス様に特別な恵みを見たのだと思います。

 イエス様を逮捕に来たのは、ユダと宗教家たちが遣わした下役の人たち、それとローマの軍隊です。一説によると兵士600人だということです。ゲッセマネの園に600人も入れないと思います。ぐるっと取り囲んで、誰も逃げられないようにしたのではないかと思います。イエス様をどれだけ恐れていたのかが分かります。そして弟子たちがイエス様を見捨てて逃げたのも分かります。

❶ヨハネ18:4

イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。

 600人の軍隊を前に、イエス様は進み出た。そして「それは私だ」と叫びました。イエス様は逮捕されたのではなくて、自分を差し出されたのです。弟子たちが逃げられたのは一つの奇跡です。結果的にイエス様一人が犠牲になった。でもそれがイエス様の願いでした。裏切る弟子たちも、恥知らずなユダヤ人も、欲に生きているローマ人も、すべての人を救うために十字架に行く。それが私だとイエス様は宣言したとヨハネは受け取ったのだと思います。

 ヨハネの福音書は、イエス様はどんな方なのかを伝えるために書かれました。だから「わたしは~である」がいっぱい書かれています。神の子羊。私はよい羊飼い。私は光。羊の門。そして今日の聖句は、十字架の苦しみと辱めを受けるのは誰か?「それは私だ」という意味です。

「私である」という言葉はエゴーエイミー。英語で言うと「I am」です。そしてこれは神様がモーセに名乗られた名前です。

❷出エジプト3:14

神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」

「わたしはある」。これが神様の名前です。神様がいるかいないかは問わない。当然、存在しておられるということを現わしています。「初めに神が」という創世記1:1の言葉も同じです。そしてすべてのものが存在する理由が神様だという意味も込められています。今、私たちがここにいるのは神様のみわざなのです。「なぜ私たちは存在しているのか」という事に悩んだら、答えはなかなか出ませんが、でも悩む方向は分かち合えます。私たちを造られた神様に答えがあります。

❸ヘブライ2:10(新改訳2017)

多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです。

モーセを選んだのは誰か?ダビデを選んだのは誰か?そして私を選んだのは誰か?「それは私だ」と言って下さるのです。私が選んだ。私が最後まで責任を持つ。そう言って下さっていると信じていいのです。

それを示す聖句を読みましょう。

❹ローマ8:32(新改訳2017)

私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。

私たちが家族や友人に福音を語ると、大抵、「またか、もういいよ」という雰囲気になります。でもある日突然、それは特別な力と意味を持って私たちと直面します。パウロがそうでした。「あなたはどなたですか?」と聞いた時、「あなたが迫害しているイエスだ」と答えがありました。ある日突然です。私たちもアーメンソーメンミソラーメンと馬鹿にしていたのに、突然神の言葉が迫ってきてイエス様と出会ったのです。

 イエス様は、私たちの信仰に応えて、それは私だと現れて下さる。私たちの教会を導いてくださるのは?と問いかければ、それは私だと答えて下さる。私たちの家族、知人を救って下さるのは?と問いかければ、それは私だと答えてくださる。悩みの中にある私に必要な力、導きを与えて下さるのは?と祈れば、それは私だと答えて下さるのです。

 「それは私だ」と言って下さるイエス様に対して、私たちは重荷を委ねるということが大切です。「委ねる」とは、神様が最善の事をして下さると信頼して自分や自分の問題、人生を任せることです。自分自身だけでは解決できない問題や、自分の力や知恵では乗り越えられない事に直面したときに、神様の導きや助けを求めることです。

委ねる事はへりくだらならなければ出来ないことです。自分の思い通りにコントロールしようとする自己中心的な欲求や、人間の力や知恵を神様よりも上に置こうとするプライドから解放されることが必要ですね。

また、「委ねる」とは、自分の意志を神の意志に合わせることも含むんですね。神様の御心、導きに従って生きることが、結果的に平安を得る事になりますし、イエス様は必ずそうして下さると約束して下さっているのです。だから委ねるということを学んでいきましょう。

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