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「マラナター主よ、来てください」ヨハネ20:1-10

今日、分かち合いたいことはイエス様の復活です。

<十字架と復活>

今、教会では復活の話は1年に1度あるかないかだと思います。十字架の話はいっぱい聞きます。でも本来、教会は復活を宣教しました。私の感想では十字架が2くらいで、復活が8くらいの割合です。十字架は復活のために必要な苦しみだった。これが聖書の受け止め方です。

イエス様の十字架は事実です。多くの人が目撃しました。当時の資料もあります。十字架の話はみんな感動します。憧れます。だから十字架では迫害されない。でも復活は私たちの常識を超えた話です。非常識な復活を宣教し、イエス様がキリストだと宣教したからクリスチャンは迫害されたのです。復活は信仰がなければ認めることはできないこと。復活からが信仰なのです。復活にはどんな意味があり、私たちに何をもたらしてくれているのか、それを分かち合いたいと思います。

<復活の意味>

今日の聖句を見ると、イエス様のすぐ側にいた弟子たちも復活を信じることが出来なかったことが分かります。人間で一番最初に復活のイエス様に会ったのはマグダラのマリアでした。彼女の知らせを聞いてお墓にかけつけたペテロともう一人の弟子が見たのは、空のお墓だけ。彼らはイエス様の復活を思い浮かべる事も出来なかったようです。ルカの福音書にはみんな「たわごとだと思った」と書かれています。弟子たちですら信じることができなかったのです。どれほど突拍子もないことだったかが分かります。

ある牧師が言っていました。「十字架だけなら誰にでも伝道することが出来るのに。」

父なる神様は、なぜ復活なんて出来事を計画して実行したのか?やっぱり特別な意味があるのです。

❶ローマ4:24-25

わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。

一つめは私たちを義とするためです。義とされるとは神様の子どもとしてふさわしいということです。父なる神様はどんな基準で私たちを子どもとして受け入れてくれるのか?ユダヤ人は律法を守ることだと頑張りました。いやいや修行をしてよい人間になることだと頑張りました。みんなそれぞれの考えで神様に受け入れてもらおうとしてきました。でも神様はイエス様の復活を信じてくれることだと教えてくれたのです。

 前回、聖書は2つの道を示して、どちらを選ぶのかと問いかけていると分かち合いました。神様に認めてもらうための道がイエス様の復活なのです。それなら誰でも出来る。体が動かなくても出来る。どん底の生活をしていても、奴隷でも出来る。すべての人が義とされる道が復活なのです。

 二つ目が、私たちを終わりの日によみがえららせるためです。

❷Ⅰコリント6:14

神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。

 父なる神様は、イエス様を復活させて、死んで終わりじゃない。絶対だった死もイエス様には勝てないことを示してくれています。その力は私たちも復活させることが出来る。復活させてしまう。

イエス様は復活の初穂だと聖書は教えています。イエス様の後、次から次へと命にあふれた私たちが復活する。私たちの体も復活する。永遠の命を教えてくれているのです。

<復活がもたらすもの> では、復活の力は私たちにどんな恵みを与えてくれるのでしょうか。

❸Ⅰペテロ1:3(新改訳)

私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。

この聖句は2つのことを教えています。一つはイエス様の復活が私たちを新しく生まれさせる。新しい価値観を知ったことです。この世がすべて、ではない。違う生き方もあると知っています。自分中心ではなくて、神様中心の生き方がある。その方が幸せにつながることを知ったのです。人に認められるのではなくて、父なる神様に褒めてもらえる生き方を選べる。それは新しい生き方です。祈りを通して自分以外の力を受けて生きることも知っています。それも新しい生き方です。

二つ目はイエス様の復活が私たちに生ける希望を持たせてくださることです。私たちの命は死で終わりではない。召された兄弟姉妹たちとも、もう一度会う事が出来る。その時は感謝と賛美と喜びがあふれる。私たちの体も復活します。命と力にあふれた体で神様を賛美することが出来ます。

そして、ルカの16:19にイエス様のたとえ話があります。この世でひどい扱いを受けて、何もいいことがなかったラザロが、死んだ後に深い慰めを受けるという話です。私たちはこの世と天国、2つの世界を生きています。必ず辻褄があう。だから右のほほを打たれたら、左のほほを差し出すような生き方が出来る。損をしても、裏切られても、敵を愛する生き方が出来る。復活があるからです。復活の力です。

最後にⅡコリント4:14を読みたいと思います。

❹Ⅱコリント4:14

主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。

復活の力を受けて、私たちは父なる神様の御前に立たせていただく時が来ます。父なる神様の前に立った時を想像してください。恐いでしょうか?待ち遠しいでしょうか?私は恐いです。出来れば立ちたくない。誰かの後ろに隠れていたい。私と同じ方は一緒に福音をもっと深く学びましょう。神様の愛と恵みをもっと深く知ることが出来ます。父なる神様を深く知ったら、待ち遠しくなります。初代教会は、「主よ、早く来てください」マラナタ!と祈っていたのです。



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