ベタニア
ベタニアって素敵な名前です。ベタニアホームとかベタニア教会とかよく使われています。名前の意味は「悩みの家、貧困の家」です。一説では病人ばかりの隔離村だったと言われています。イエス様はこの村を拠点にしていたのです。もしかしたらマルタかマリアかラザロは病人だったのかもしれません。そしてこの村でラザロが生き返ったのです。
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この事件で、イエス様の人気は絶頂を迎えました。ものすごい人気です。そりゃそうです。生き返りの事件を何人もが目撃し、何より生き返った本人が目の前にいるのですから。当時、エルサレムの人口は3万人ほどだと言われています。過ぎ越しの祭りの時には飛んでもない人数の人たちが参拝に来たのです。ある歴史の本には270万人(これはちょっと多すぎです)。ある学者の研究では15万人。たくさんの人たちがイエス様をイスラエルの王として迎えたのです。
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でも同時に、この事件と人気のために祭司長たちはイエス様とラザロを殺す事を決めました。祭司長たちはサドカイ派という団体の関係者です。サドカイ派は復活はないと教えていたのです。だから生き証人であるラザロを生かしておく訳にはいかない。イエス様の周りは異様な雰囲気だったと思います。この12章からはもう十字架にまっすぐです。イエス様は覚悟をしてエルサレムに入ったのです。そのイエス様の覚悟を後押ししたのが今日の聖句、マリアの捧げものでした。
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約300万円もの香油をイエス様の足に塗り、自分の髪の毛で拭う。周りの人たちのひんしゅくを買ったようです。弟子たちはマリアを責めました。お金がもったいないということもありますが、その行為自体が異様だったのだと思います。マルタは人前でこんなことをしてはしたないとマリアを叱ったかも知れません。
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イエス様はこの行為を自分の葬式のためだと受け止めました。当時イスラエルでは亡くなった人に香油を塗り、包帯で巻いて埋葬していたからです。
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マリアはなぜこんなことをしたのか?香油は本来なら頭に塗るものだそうです。頭に塗ろうとしたらイエス様の足が汚れていたのかも知れません。傷があったのかもしれません。ラザロを生き返らせてもらったお礼だと考える人が多いようです。でも本当のところはイエス様とマリアにしか分からないことです。
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私たちなら、どんな時に全財産を捧げるような事をするでしょうか?マルコの福音書には数百円ほどの全財産を捧げる女性の話があります。パウロにいたっては、財産どころか、ピリピ教会の兄弟姉妹の信仰のためなら命を失っても喜ぶとまでいっています(ピリピ2:17)。マリアにとっても、マリアの家族にとっても、この香油は全財産と言える価値があったのかも知れません。それを捧げられるのはどんな時なのでしょうか。
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きっと300万円よりももっと素晴らしいものをイエス様からもらったのです。それがないと、献金させられて、奉仕させられるという苦しい信仰生活になってしまいます。伝道学院に在籍中、学院長の寺門先生から「嫌々やるなら伝道者にならないほうがいい」と言われたことがありました。きっと態度が悪かったのでしょうね。その時は意味がよく分かりませんでした。今は分かります。イエス様の恵みを見失ったら喜びもなくなってしまうのです。私たちが解放されて信仰生活を送るために、自分がイエス様から何を受けたのかを知ることが大事です。
❶ローマ8:35-39
だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
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では、私たちに捧げられるものは何かあるのだろうか?と考えます。私たちは心の貧しい者ですから、神様に胸を張って捧げられるものなどなさそうです。ただ毎日の精一杯の生活、心からの祈り。兄弟姉妹へのコップ一杯の水ほどの奉仕。それをイエス様は捧げものとして受け取ってくださると思います。
❷マタイ10:42
はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」
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マリアのこの捧げものはイエス様の十字架への覚悟を後押ししたと思います。マリアはイエス様の様子がいつもと違うことに気づいていたのだと思います。それはいつもイエス様のそばにいて、イエス様の話を一番前で聞いていたからでしょう。苦しむイエス様のために何かしてあげたい。それが香油を注ぐことになったのだと思います。男の弟子たちも、誰もイエス様の苦しみや悲しみに気付いてもらえなかった。でもマリアだけがイエス様の心に寄り添うことが出来た。イエス様はマリアの励ましを受けて十字架に向かうことが出来たのです。私も目の前の事、目の前の人に仕えられる、そんな弟子でありたいと思います。
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