今日も賜物について分かち合っていきたいと思います。特に今日の聖句では異言と預言の賜物が取り上げられています。どうしてこんな話が出てきたかというと、コリント教会の礼拝がしちゃかめっちゃかに混乱していたからです。
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当時の礼拝は夕食を食べながら行われたと分かち合いました。(私たちの愛さん会をイメージしてください)あちらとそちらで見せびらかすように異言を語る人がいて、こちらでも向こうでも預言を語る人がいて、お互い聞いていない、という状況だったようです。酔っている人もいたそうですから、実際、宴会みたいな雰囲気だったのかも知れません。とても礼拝どころじゃない。とにかく混乱していた。それは時と場所と賜物をわきまえていなかったからです。
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今日の聖句で、パウロは異言よりも預言の賜物を求めなさいと勧めています。
それは異言より預言の方が優れているから、ではありません。異言が礼拝にふさわしくなかったからです。ちょっと下の対応表を見て下さい。
異言 預言
神に向かって語る(誰も理解できない) 人に向かって慰めや勧めを語る
自分を成長させる 教会を成長させる
信じていない人のための印 信じている人のための印
初めての人は気が狂っていると思う 心の秘密が露わにされて、神がおられることが分かる。
異言は一人の時に、自分の成長のために用いる賜物です。それを礼拝で勝手に用いるのは混乱しか生まないのは分かります。しかもそれで自分は霊的なクリスチャンだと誇っていたようですから始末に負えません。異言は礼拝で用いるべきじゃないのです。それをわきまえられなかったのです。
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じゃ預言はどうかと言うと、「今日の説教は今の自分にドンピシャでした。神様が自分に語り掛けて下さったとしか思えない」ということはないでしょうか。それが預言です。隠していた事を指摘されたり、落ち込んでいたら励まされたり。神様が自分のために語って下さった。そんな経験があると思います。それが預言の賜物です。礼拝にふさわしい賜物です。だからパウロは預言の賜物を求めなさいと勧めたのです。
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後半に女性は黙りなさいという勧めがあります。これはすべての女性の事ではないそうです。礼拝中、いつも勝手に話をしたり質問したりして仕切ってしまう女性がいたのです。あの女性がいると礼拝どころではなくなってしまう。そういう人がコリント教会にいたのです。だからパウロの手紙を読んだ人達は「あぁあの人の事ね」と分かったのです。時と場所をわきまえず、好き勝手にふるまってしまう。だからパウロは「神は無秩序の神ではなく、平和の神(Ⅰコリント14:33)」とわきまえる事を勧めました。(プロジェクターを使いますが、ぜひ聖書を用いて下さい。)
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このような混乱は、賜物をちゃんと理解していなかったから起こったのです。神様からいただいているものと言う、もっと広い意味で賜物を考えてみたいと思います。
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バプテスマのヨハネは、神様から与えられなければ私たちは何も手に入れることは出来ないと言いました。
❶ヨハネ3:27
ヨハネは答えて言った。天から与えられなければ、人は何も受けることができない。
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私たちが受けているものはすべて神様から与えられたものだという信仰です。私たちは一生懸命頑張って、欲しいものや必要なものを手にします。でも神様が与えて下さらなければ何も受けることはできないという事を知っている。この信仰を持つ事は大事なことだと思います。神様を知る事が謙遜の土台です。神様を知らない謙遜では優越感と劣等感で疲れることになります。神様が必要なものを与えて下さる。この信仰は私たちの人生に自由さと解放感を与えてくれるのではないかと思います。
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じゃ、この信仰からどんな生き方が現れるかというと、分かち合いだと思います。先週の教会学校で、神様の恵みについて分かち合いました。恵みというのは、もらう資格がないのにもらえた事です。頑張ったご褒美ではない。これは報酬です。頑張ってもいない、お金も払っていない。代価を払っていないのにもらってしまった。それが恵みです。
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で、神様の恵みとは具体的には何だろう?と考えてみたのですが、なかなか出てこない。私たちが報酬社会にどっぷり漬かっていることが分かります。それでも知恵を出し合って、ようやく「空気」、「命」、「家族」、「兄弟」、「太陽や雨」と出てきました。きっとこの他にもたくさんあるのだと思います。すべて神様からの恵みとしていただいたと言えるのです。「福音」も「永遠の命」も「信仰」すらも、神様から与えられた恵みです。そして「賜物」も恵みとして与えられているのです。そこで示された聖句がⅠコリント4:7です。
❷Ⅰコリント4:7
あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。
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霊の賜物は自分のために使わない。自分を誇るための力じゃない。兄弟姉妹のために与えられた力です。5千人の給食の奇蹟が福音書に書かれています。そこに込められている真理の一つは、分け合う事で祝福は広がるという事です。5千人を前にして、たった5つのパンを割いて配った時に奇蹟は起こりました。ただで受けたものはただで分かち合う。神様の恵みは、ケチケチしないで多くの人と分かち合う。無くなったら神様に与えてもらえる。教会はそんな信仰を持って生活したいです。
❸ルカ6:38
与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」
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あふれる程に私たちのふところに入れてくれるのは誰かというと神様です。何をふところに入れて下さるのか。私たち一人ひとりが神様に聞いてみましょう。
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最後に預言の賜物を求める事についてお分かちしたいと思います。
ある牧師は小学生の時に教会学校のお話を聞いて、自分の罪を示され、悔い改めて、イエス・キリストを信じたそうです。その時お話をしたのは中学生でした。聖書の勉強をしていた訳ではない。信仰歴が長い訳でもない。人生経験もない。それなのに一人の小学生を回心させることが出来たのは預言の賜物です。
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礼拝の中で誰かがイエス様と出会い、回心する。それは預言の賜物です。話のうまさではないし、聖書の知識の多さでもない。神様が、私たちが体験した悲しみや苦しみや喜びを通して、誰かを慰めて励まして下さる。私たちが語るのではなくて、神様ご自身が語って下さる。それが預言の賜物です。今日の聖句が勧めるように、預言するための賜物を熱心に求めましょう。そして説教者に祈りの賜物が与えられるように祈って下さい。みんなに預言の賜物が与えられて、慰めや励ましがあるれる教会。私たちを通して神様が語って下さる。そんな教会を目指していきましょう。なさい。
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