今日、分かち合いたい事は主の食卓です。でも主の食卓についてではないのです。コリント教会がイエス様の思いを軽んじていた。そのことが主の食卓に現れていた。その事を指摘しているのが今日の聖句です。
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こうやって学んでみると、コリント教会にはたくさんの問題があったんだなぁと分かります。分裂・分派。自由を勝手に解釈して不品行。兄弟姉妹で争って裁判沙汰。偶像礼拝に参加。教会内の秩序の混乱。きっと根っこはイエス様の思いより自分の思いを優先したことなのかも知れません。それでもパウロはコリント教会の兄弟姉妹を聖徒と呼び、褒めて励ましていました。
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でもここではコリント教会の主の食卓は決して誉められない。害になっているととても厳しく指摘したのです。それはパウロが主の晩餐をが教会の中心と捉えていたからだと受け取っています。他の事も大事。でもこれが崩れたらもう教会とは言えない、そういう問題なのです。
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突然ですが、皆さんは教会が教会であるために、絶対なくしてはならないもの、崩してはならないものは何だと思われるでしょうか。普段こういうことは考えません。でも私たちが何を大切にしていくのかをみんなが分かっているというのはとても大事ではないかと思います。ちなみに、教会が儀式として無くしちゃならないものが2つあります。洗礼と聖餐式です。この2つを止めてしまったらもう教会じゃないそうです。
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かつて日立教会には中期目標というものがありました。みことばが豊かに宿る教会、寛容な教会、伝道する教会の3つです。佐々木良一さんからこう言われました。「どんな目標を立てるかはあまり重要ではないのです。時間をかけて一人ひとりが自分の事として考える事が大事なのです。」
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私自身はこの3つの中期目標を改めて掲げてもいいと思っています。そして私たち日立教会は何を大事にしていくのか、何を大事にする教会なのか、それをゆっくり祈り求めていきましょう。求めよ、さらば与えられん!です。
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コリント教会が壊してしまったものは何かというと兄弟姉妹の交わりでした。ちょっとびっくりしますが、当時のコリント教会の礼拝は土曜日の夜です。しかも礼拝堂はまだないので、10人か20人くらいの人達が集まれる大きさの裕福な人の家が礼拝場所です。今のようにプログラムに沿って礼拝が捧げられたのではなく、仕事を終えた人たちがそれぞれ集まってきて、まず夕食です。みんな食事を持ち寄って分け合います。食べ終わった頃に聖餐式や説教を行ったのです。心だけじゃなくお腹も満たされた礼拝でした。つまり毎週愛餐会が礼拝だったのです。
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これは教会内の貧しい人やホームレスの人達、奴隷、未亡人やみなし子たちを助けるための愛餐会でした。教会は弱い人たちのセイフティーネットだったのです。ちなみに、初代教会時代は、主の食卓とは愛餐会の事。じゃ聖餐式は何と呼んだかというと、主のパンと主の盃と呼んだそうです。
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でもそのうち、裕福な人たちが困っている人たちと食事を分け合おうとしないで、気の合う者同士で食べようや。その方が向こうも遠慮しないで食べられるだろうと教会内にグループが出来た。交わりを止めてしまったのですね。それぞれが勝手に飲み食いして、酔っぱらっている人もいれば、何も食べられず空腹のままの人もいたようです。パウロはそんな状況を聞いて「それは主の晩餐ではない。それは教会ではない。」と嘆いたのです。
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ある方から教えてもらった事を分かち合います。「私たちは誰かのために奉仕を始めたり、聖書の言葉に従い始めたりして初めて罪というものを実感できる。」何もしなければ何も気付けない。何も気付かずに済みます。でもよい事を続ける中で、自分の罪に気付かされる。傲慢さや自己中心や浅はかさ。肉の思い。不純な動機。もう辛くて大変です。実は気付けたそこからが聖霊の導きなのです。コリント教会の人達もパウロから痛いことを指摘されて、でもだから失格じゃない。聖霊はやり直すためのチャンスを教会に私たちに下さっているのです。
❶黙示録2:4-5
しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。
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コリント教会はよい事を始めたのです。でもどこかで崩れてしまった。パウロはコリント教会の人達に大事な心を想い出させようとしました。それを分かち合いたいと思います。
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それが「わたしを覚えて」です。新共同訳では「私の記念として」と訳されていますが、「わたしを覚えて」の方がよいと考えています。「わたしを覚えて」―これはイエス様の十字架の死を思う事です。でもそれだけじゃないと受け取っています。イエス様の心、イエス様の思いに寄り添うということだと思います。
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目の前の生活に困っている人は神様がイエス様を犠牲にしてまで神の子として受け入れた、神様にとって大事な人。イエス様が十字架に架かるほど価値のある人だという神様の思いを覚えてほしい。わたしを覚えてとはそういう事ではないでしょうか。
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教会にはイエス様の思いが込められています。
❷エフェソ1:22-23
神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。
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イエス様にとって教会はご自身の体で、ご自身の花嫁で、兄弟姉妹で、希望で夢なのです。愛餐会で貧しい人たちをないがしろにすることは、イエス様の思いを軽んじる事にならないかと厳しく諫めているのです。
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パウロはユダヤ人と異邦人の交わりのために生涯を捧げた人です。差別も格差も人種も超えた教会の交わりを何が何でも守ろうとしたのです。イエス様が十字架によって造られた世界だからです。
❸エフェソ2:14-19
実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。
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私たちの交わりの中にイエス様の思いが現れます。イエス様を覚えて、その世界を守る。それが教会の務めなのだと思います。
主の食卓、愛餐会はただの食事会ではないのですね。神の国の交わりなのです。兄弟愛や謙遜や寛容や仕えること、時には赦しをも学ぶ場所なのです。イエス様を覚えて大事にしていきたいです。
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主の食卓を受ける時、心にかかる兄弟姉妹のためにも祈りましょう。私たちの交わりの中に人々を招きいれていきたいですね。
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