1,人と自分を比べる事は聖霊の働きを邪魔すること
2,教会の交わりのあり方は私たちの体が教えてくれている
3.兄弟姉妹に仕えるためにみんなに聖霊の賜物が与えられている
今日分かち合いたい事は聖霊の賜物です。でも今回も聖霊の賜物について、ではありません。コリント教会が抱えていた問題が聖霊の賜物に表れていた。パウロはそこで祝福を分かち合おうとしたのです。今日のポイントは3つです。
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それにしてもコリント教会は本当に問題だらけの教会でした。主の晩餐において貧しい人と裕福な人の格差がありました。そして今回は聖霊の賜物に優劣をつけて兄弟姉妹を差別していた、奉仕に優劣を付けたという問題です。
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今日の聖句には聖霊の賜物がたくさん紹介されています。知恵の言葉、知識の言葉、信仰、病気をいやす力、奇跡を行う力、預言する力、霊を見分ける力、異言を語る力、異言を解釈する力。コリント教会にはこんなに聖霊の働きがあったのでしょうか。きっと愛さん会をして、主の晩餐を分かち合って、説教を聞いて、その中で病気の兄弟姉妹のためにみんなで手を置いて祈り合ったり、困っている人のために知恵を出し合ったりしたのでしょう。そして奇跡が起こったり、病気が治ったり、異言を語ったりしたのだと思います。
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そんな事が今でもあるのか?私が相談した牧師たちは、当時は必要だったが今はもう必要ないという考えでした。当時は医療が整っていない。だから神様は教会を通して癒しを行われた。でも今は神様は医者を通して癒しを行われている、と教わりました。なるほどなぁと思います。でも私は癒しも含めて、これらの賜物をいつも求めていきたいと思っています。何故ならこれは聖霊なる神様の働きだからです。私たちが終わったとか必要ないとか言わない方がいいかなぁと思っています。それも聖霊の働きを邪魔することになるかも知れません。聖霊に自由に働いていただける、そんな教会でありたいですね。
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コリント教会の問題が聖霊の賜物に現れていました。賜物で人を差別していたようなのです。異言という賜物が何より大事で、その賜物がない人を見下すような事があったのだと思います。異言の賜物以外の賜物を格下と考えていた。異言を離せない人も格下のクリスチャンと考えていたのです。賜物に優劣を付けたのですね。そしてクリスチャンにも優劣を付けたのです。それが聖霊の働きに優劣を付けた事に気付いていなかった。これはやっぱり問題ですね。その根っこは傲慢なのだと思います。
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若い頃、異言の賜物を強調する教会の話を伺ったことがあります。その教会では異言の賜物を持っている事が何よりも大事で、異言が話せることが聖霊に満たされていることの証拠と考えていたそうです。教会員みんなで異言の練習までしていました。賜物なのに練習って、もうそこで間違っています。どれだけ練習しても異言が話せない。当たり前です。それで異言を話せる振りをするようになった人もいたそうです。自分はクリスチャンとして失格だと信仰から離れてしまった人もいたそうです。賜物に優劣はありません。その人には別のすばらしい賜物が与えらえていたのです。
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もしかしたらコリント教会でも似たような状態だったのかも知れません。ではここで動画を見たいと思います。異言の動画です。私は洗礼を受ける前からこういう集会に参加していましたし、異言を話すという友人もいました。実際にその現場に居合わせたこともあります。私の異言の理解は、自分で話せない外国語を話す事ですから、これが異言と言われてもよく分からないです。恍惚状態になって意味のないことを話しているように見えてしまいます。当の本人にどんな感じなのか聞くと、勝手に口が動いてしまって、ものすごく気持ちのよいものらしいです。とても自由で解放されて神様に愛されていることが分かるそうです。
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ある牧師は、異言は派手な賜物だと言います。見えるものだし、自分が霊的なクリスチャンだと実感することが(その牧師は錯覚することと言っていました)出来る。自分が霊的なクリスチャンだと思えるから、コリント教会のクリスチャンたちは異言を強調したのかも知れません。
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「自分は霊的なクリスチャン。神様に愛されている事がはっきりと分かる。でも異言を離せないお前たちは霊的じゃない。」そんな事を思ったり言ったりしていたのでしょう。人に優劣を付ける傲慢さ、人を裁く傲慢さが、どれだけ兄弟姉妹の信仰を傷つけてしまうか。気を付けたいと思います。パウロは教会を「キリストの体」に例えています。聖霊の賜物はそのキリストの体のために与えられていると教えました。私たちの人を裁く傲慢さがキリストの体を壊してしまうなら申し訳ないことですね。
❶Ⅰコリント12:21-24
目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。
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皆さん。体の中で一番重要な器官は何だと思いますか。ある外科医が人間の体の不思議さを本にしたのですが、その外科医が奇跡の器官と紹介しているのが肛門です。どんなに科学や技術が進んでも肛門のようなものを作ることは出来ないそうです。どこが素晴らしいかは、場所が場所なので止めときます。じゃ体の中で肛門が一番かというとそんなことはない。脳も心臓も爪も鼻もまつ毛も、すべてが奇跡。大事なのは体全体を健全に保つこと。体のどこが故障しても大変な事になってしまいます。パウロが伝えたいのは、体の器官に優劣を付ける事のナンセンスです。優劣を競う事は本当にバカバカしいこと事。私たちはそんなことはしません。でもそのナンセンスな馬鹿な事を教会でやっていませんか?自分に対してやっていませんか?と問いかけているのです。
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教会の中で目立つ人がいます。そして目立たない人がいます。人と比べて優越感を感じる危険に気を付けましょう。人より奉仕が出来る。仕事が出来る。そんな時は気を付けましょう。そして同じくらい、人と比べて自分はダメだと自分を卑下する危険にも気を付けましょう。
❷Ⅰコリント12:15-20
足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。
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優越感に浸る事、自分をダメだと卑下すること。どちらも聖霊の働きを邪魔すること、聖霊の働きを拒否することになってしまうのです。あの人にはあの人の賜物が、自分には自分の賜物が聖霊から与えられています。ある人には5つの賜物が与えられているかも知れません。自分は1つしか与えられていないかも知れない。聖霊が御心のままに与えて下さっています。それは誇る事ではないし、嘆く事でもない。賜物は自分のために与えられているのではなく、兄弟姉妹の信仰のために与えられているからです。
❸Ⅰコリント12:7
一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。
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才能は自分のためも使います。でも賜物は自分のためには使えません。手は手のために働くのではない。足は足のために働くのではない。体全体のためです。小指は小指だけで働くのではない。他の4本の指と一緒に働くのです。私たちに求められている事は自分の賜物を使って、キリストの体のために、兄弟姉妹のために、出来ることを喜んで奉仕することなのです。
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賜物を使って奉仕することは自己実現ではないですね。でも自己実現よりも大きな喜びがある、と教わった事があります。その喜びを求めて賜物を活かして奉仕していきましょう。
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