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執筆者の写真日立キリストの教会

2022年4月3日「キリスト者の自由」Ⅰコリント9:19


今日の聖句は偶像に捧げた肉を食べない事の続きです。

兄弟姉妹がつまずくなら肉を食べない!とパウロは宣言しました。きっと守ったのだと思います。人の見ていないところではこっそり食べるような事はしなそうです。これは大きな犠牲だと思います。自分の願いのためにお酒を断つとか、お茶を断つとかの話は聞いたことがありますが、教会のメンバーの信仰のためにもう肉を食べないと決断するのは簡単なことではないです。

 私は心臓の関係でカフェインがダメになりました。大好きなお茶も飲めなくなってしまいました。飲むと苦しくなるので、何とかお茶断ちを続けられています。実はノンカフェインのコーヒーやお茶を見つけたので飲んでいるのです。誰かのためにお茶を一生飲まないというのは出来ないだろうなぁと思います。陰でこっそり飲みますよ。よほど強い動機があったのだろうなぁと思うのです。

 今日の聖句ではパウロがもう一つ我慢していることが書かれています。それがコリント教会からサポートをもらわないことでした。他の使徒たちは当然の権利として各教会からサポートを受けていたのですが、パウロの仲間たちはコリント教会からサポートを受けずに奉仕していたようです。その理由を読んでみましょう。

❶Ⅰコリント9:12

他の人たちが、あなたがたに対するこの権利を持っているとすれば、わたしたちはな

おさらそうではありませんか。しかし、わたしたちはこの権利を用いませんでした。か

えってキリストの福音を少しでも妨げてはならないと、すべてを耐え忍んでいます。

 コリント教会からサポートを受けると福音の妨げになると考えていたのです。何故妨げになるのか?はっきりとは分かっていません。いろいろな説があるのですが、私は不品行を公然と行い、偶像礼拝も平気で行っている教会からサポートをもらっていたら、キリストの福音とはそういうものだと思われてしまうことを恐れたのだと思います。パウロはピリピ教会からのサポートは受けていました。ピリピ教会からサポートを受けてコリント教会で奉仕していたのです。ピリピ教会はよくてコリント教会がダメだった理由が大事だったのです。

 9:1には自由という言葉が出てきます。自由は、普段あまり意識しなくてもよいほど私たちには普通の事です。自由にほとんどのことが出来る。世界には自由を得るため守るために戦わなければならない所もある。とても恵まれた時代・社会で生きています。その自由をちゃんと受け止めて活かして行かなければならないと思います。

聖書が示す自由も私たちはあまり意識しないかも知れません。今日はちょっと私たちの自由を考えるきっかけを分かち合っていきたいと思います。

❷ガラテヤ5:1(新改訳)

キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。

私たちの救いを理解するために大事な聖句です。イエス様は私たちを自由にするために十字架に架かられたのです。その自由は律法でガチガチのユダヤ人でも、自由な日本人でも、自由のない国の人でも、奴隷でも自由になれる不思議な力があるのです。

パウロはイエス様と出会って初めて自分が罪の奴隷であったことに気付いたのです。罪を教えても罪を認めることは出来ないものです。恵みを受けて初めて罪というものを理解することが出来るのだと思います。正しい事が出来ない。したくない事ばかりしている。クリスチャンになって、兄弟姉妹の交わりを通して、自分が罪の力に縛られていることが少しずつ分かって来て、同時にキリストの恵みが自分を少しずつ解放して自由にしてくれていることを知っていったのです。長い信仰生活を通して、パウロはもう誰に対しても自由、罪とか自我とか目に見えないものに関しても自由にされたと知ったのです。

自由というのは晴れやかな、軽やかなイメージがあります。でも今日の聖句を読むと、我慢ばかりして、したい事も我慢して、何だかクリスチャンになる前よりも窮屈になったと思われるかも知れません。それはパウロがその自由を自分のためには使わなかったからですね。イエス様から与えられた自由で不自由を選ぶことが出来たのです。

 昔、奴隷に関するドラマを見たことがあります。主人公の奴隷が主人から解放されて自由になった。そうしたらその主人公の元奴隷はそのままその家で仕えることを選んだのです。環境は変わらない。仕事も変わらない。でも立場が変わりました。自分の意志で仕えることを選んだ。誇りをもって仕えることが出来る。そういう内容でした。

 同じ話が旧約聖書に出てきます。解放された奴隷が自分の意志で同じ主人に仕えることを望む場合です。

❸出エジプト記21:6

主人は彼を神のもとに連れて行く。入り口もしくは入り口の柱のところに連れて行き、彼の耳を錐で刺し通すならば、彼を生涯、奴隷とすることができる。

きっとご主人が素晴らしい人だからずっとこの人に仕えていたいと思ったのでしょう。それに今更自分で生計を立てるのは難しい。主人の家なら食べ物には困らない。そういう理由もあったと思います。もしかしたら、すべての人の奴隷というパウロの発想はここから来ていたのかもしれません。

❹フィリピ2:3-8

何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

 パウロはイエス様の十字架を見ていないらしいです。でも聖霊なる神様は、イエス様がパウロのために奴隷となって、パウロ身代わりになって、パウロの罪をすべて背負って十字架に架かって死なれたことをはっきりと示されたのです。そうやってイエス様の恵みを受けたパウロは、喜んで自分の意志ですべての人の奴隷になることを選んだと今日の聖句で語っています。それはイエス様が私たちすべての人の奴隷となって下さった事を知っているからなのです。

イエス様から与えられている自由は、身分や立場や年齢や健康や能力に左右されません。自分の意志の自由なのだと思います。自分の意志として不自由を選べる力、仕える事を選べる力なのです。そのために聖霊なる神様は私たちを縛り付けているものを少しずつ解放し、高慢を打ち砕いてくださいます。私たちもその自由をもうすでに与えられています。これは私たちへの招きでもあると思います。

❺ガラテヤ5:13

兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。

 イエス様から与えられた自由を使って、どのように互いに仕え合うことが出来るでしょうか。イエス様のしもべとして、祈り求めていきましょう。

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