今日の箇所は、多くの女性をつまずかせた聖句です。試しに8節「男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのです」などという言葉を日本の政治家が言おうものなら、大変なことになるでしょう。聖書は男尊女卑なのかと言われそうです。
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「ジェンダー・ギャップ指数」というものがあります。男女間の平等がどの程度社会で実現されているのかという調査です。上位はアイスランド、フィンランド、ノルウェーなど北欧ヨーロッパ諸国です。ドイツやフランスも上位に入っています。日本はといえば120番です。中国よりも悪いという結果になっています。キリスト教国はジェンダー・ギャップ指数が高い。キリスト教国とは言えない日本がこれですから、聖書やキリスト教が男女平等を阻害しているということにはならないと思います。
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実はこの聖句はかぶり物とか、男性と女性の事が書かれているのではなくて、本当の問題は秩序なのです。「すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神である」と書いてありますが、神様の権威に従うことが問われています。その象徴がかぶり物なのです。
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今もカトリックでは女性はベールを顔にかけるそうです。美濃ミッションというグループでも顔にベールをかけて、男女別の席で礼拝している。多分、この聖句を基にした慣習だと思います。
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そもそも、どうしてこのかぶり物がそんなに問題になっていたのか。ユダヤ教では男はみんなかぶり物をかぶっています。祈る時祭司もかぶる。ということは、これはユダヤ教の伝統の影響の話ではないですね。ギリシャ社会の習慣の問題。
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一説によると、ギリシャ社会で女性が人前でかぶり物をしないのは売春婦だったそうです。今も中東のある国では女性はベールをかぶる習慣があります。顔を見ていいのは夫と家族だけ。女性を解放しよう、そんな風習をやめようとベールをかぶらない女性も増えているようです。それと同じような事がコリントもあったのかもしれません。私たちは自由になった。もうそんな偏見と因習にこだわるのはよくない。教会が率先して自由を証するべきだ!なんて意見があったのかも知れません。
❶ガラテヤ3:28
そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。
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男性社会からの反発も大きかったと思います。でもきっとこの聖句によって勇気を与えられ励まされたのだと思います。その象徴として教会で女性たちがかぶりものをかぶらないようになったのです。
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実はここの本当の問題は、かぶり物をかぶるかどうかじゃなく、リーダーの忠告を聞くかどうかの問題なのだと思います。コリント教会の男性リーダーがパウロに「パウロさん。うちの教会の女性たちが伝統に従わないんです。周りの住民から反発を食らっています。でも意見を聞いてもくれないんです。困っているんです。」と相談したのだと思います。だからパウロはかぶり物を通して権威の話をしているのです。
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パウロは革新的な人でした。ユダヤ教の古い慣習を壊して命を狙われた人です。なのにこの聖句では別人ではないかと思うほど保守的です。それは宣教のためなのです。この聖句は、コリント教会がギリシャ社会の中で福音を宣教していくために何を大事にしなければならないかを伝えてくれています。
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キリストによって与えられた自由をどう使うかという問題です。自分のために使うか、それとも宣教のために使うか。パウロは宣教のためならユダヤ人であることにこだわらず、変だなぁと思っていてもギリシャ社会に合わせることが出来る柔軟性を持っていたのです。それどころかすべての権利も放棄するし、命さえも捧げると考えていたのです(ピリピ3:8/Ⅰテサロニケ2:8)。だからなのか、パウロはちょっと無理してギリシャの風習に合わせているようなぎこちなさを感じる聖句でもあるのです。
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宣教師と話した時に教えてもらった事です。宣教師の悩み。自分とはまったく違った文化の中で宣教しなければならない。それが大変なんだそうです。現地の風習ややり方や考え方を全然納得できない。でもそれを否定してしまうと宣教が出来ない。変えていい事と変えていけない事を考えさせられるそうです。
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全裸で暮らしているところに行った宣教師。勇気を振り絞って全裸で礼拝に行ったら、現地の人が宣教師のために全員服を着て礼拝に来てくれたという心温まるエピソードがあります。
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かぶり物はパウロには問題ではない。それよりもクリスチャンたちが自由をどう使うかなのです。
❷ガラテヤ5:13
兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。
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自分の自由を神様に従う事に使う。人に仕える事に使う。自由を不自由になるために使うことを勧めています。それは何故か?イエス様がそうされたからです。
❹ヨハネ10:17-18
わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。
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イエス様はご自身の自由も力も命もご自分から捨てられ、十字架に架かられました。イエス様は父なる神様の命令に従う人生を歩まれたことが分かります。私たちもイエス様の命令に従うために自由とその力が与えられています。イエス様の命令に従う人生は一見不自由に見えるのですが、本当は自由。本当に自由じゃないとできない生き方。聖書が教えている自由を祈り求めていきましょう。
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自分を縛って不自由にしているものはないでしょうか?
伝道のためにどんな配慮が必要でしょうか。
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