今日、分かち合いたいことは自分の体を通して神様の栄光を現わすということです。これはコリント書のテーマだと思います。特に今回は結婚です。結婚を通して神様の栄光を現わすことが出来る。そして独身であることで神様の栄光を現わすことも出来る。それぞれの立場で、それぞれのやり方で神様の栄光を現わす。これはダメとか、これじゃなくてはダメとかはない。聖書はそう教えています。
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きっかけはコリント教会という町でクリスチャンになった人たちからの質問です。「男が女性に触れないことはいい事ですよね」。コリントと言う町は当時、特別風紀の乱れた町で有名だったそうです。そういう町でクリスチャンになった。様々な信仰の葛藤が起こる訳です。前回は風俗通いをすることが問題でした。今回は極端な禁欲主義と独身主義の問題です。
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突然ですが、私は中高生の頃、修道院に入ることに憧れたことがありました。修道院に入って独身を通して清い人生を送り、すてきな女性修道士と出会う。あるいはカトリックの司祭のように、一生独身を通して神と人とに仕える人生を送る。実際は、牧師になるための学校を選ぶ時、ある学校に見学に行きました。そうしたら最初に言われたのが、食事は基本パンの耳。婚約、結婚は認めないとのことでした。集中して聖書を学び奉仕に専念するためだったのでしょう。でもパンの耳はいいとして、結婚ダメは自分には無理でした。そのまま逃げるように帰ってきて伝道学院に入学しました。
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コリント教会には極端な禁欲、独身主義があったようなのです。①婚約しているカップルに、清い純粋な信仰のために結婚は見合わせた方がいいと言う人たちがいた。②夫婦でクリスチャンになったけれど、清い純粋な信仰のために夫婦の性生活もきっぱりと止めて、別居して祈りに専念した方がいいと考える人たちがいた。③結婚した時はクリスチャンじゃなかったけれど、片方だけがクリスチャンになった。未信者のパートナーがいるのはよろしくない。離婚しなさい、と言い出す人もいたようなのです。
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コリントという町に住んでいたからなのでしょうか。独身を通すことが信仰の清い道。夫婦と言えども性生活を持たないことがきよい信仰生活と考える人達もいたのです。風俗通いしていた人たちとは真逆です。そこで「男が妻にも触れないことは良いことですよね」とパウロに質問してきた訳です。
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パウロは困ったと思います。パウロは結婚はしなかったようです。女性にもてなかったようなので、こういう問題は得意じゃなかったのではないでしょうか。「これは神の命令です」。「これは私の意見です」。と慎重になっています。でもパウロがはっきりと答えているのが今日の聖句です。
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独身の方が清い信仰が持てるというのは私たちの勝手な思い込み。それを聖書は肉の思いと言っています。エペソ書には結婚は神様の奥義という教えがあります。でも結婚していれば清い信仰が持てるという訳でもない。パウロは結婚しているかどうかは問題にしていない。どっちでもいいよ。というのがパウロの立場です。それよりも真剣に考えなければならないのは、今私たちがいるこの場で神様の栄光を現わしているか。イエス様の栄光を現わそうと願っているかということです。人は勝手な理想や主義を押し付けてくることがあります。大事なのは神様が私たちをどう見て下さっているかを知る事です。
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来週の説教の内容になりますが、パウロは奴隷か、自由かはあんまり関係ないという考えです。奴隷だから神様の栄光を現わせないことなんてない。奴隷でもそうじゃなくても、病気でも、人見知りでも、神様の栄光を現わすのに、これじゃなきゃダメ。こうしなきゃダメというのはない。長男じゃなければ、家族がいなければクリスチャンになるのに、という意見を聞いたことがあります。立場や状況に関わらず、誰でも神様の素晴らしさを証することが出来る。そう励ましているのです。
❶ローマ14:5-8
ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。
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それぞれの信仰の確信で神様の栄光を現わすことが出来る。いろいろなやり方を認め合えたらいいと思います。結婚を通して、独身を通して、仕事を通して、病気を通してでさえ、神様の栄光を現わすことが出来るのです。あなたが救われるためには、きよくなるためには、祝福されるためには、家族を捨ててとかになると異端の宗教のやり口です。
❷Ⅰコリント7:15
神は、平和を得させようとしてあなたがたを召されたのです。
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神様が召されたのは、今私たちが置かれている場所で私たちが平安を持ちながら生活するためなのです。無理をして神様の栄光を現わすことではない。今の私たちのままで、今の私たちの状態で、立場で神様の栄光を現わすことが出来るのです。
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では分かち合いです。今のありのままの自分で、どうやって神様の栄光を現わすことが出来るでしょう。それはきっと小さなことなのです。何でもないことなのです。どこにいても出来る事なのです。どんな状態になっても出来る事なのです。自分なりの在り方を精一杯祈り求めましょう。
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