コリント教会が抱えていた問題は日本の教会に当てはまります。異邦人社会の中の教会だからでしょう。今日の聖句は偶像礼拝の問題です。ギリシャ・ローマ世界も日本の八百万には届かないでしょうけれど、いろいろな神様がいたそうです。福音書では一神教のユダヤ世界での出来事が書かれています。ですからイエス様は偶像礼拝についてはあまり話さなれなかった。でもイスラエルを一歩出れば多神教の世界です。パウロは様々な問題に直面した訳です。
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伝道学院に入学するに当たって、私達家族は他県の教会に住まわせてもらいました。いろいろ驚いたことがあったのですが、びっくりしたのは、町内会で月一回持ち回りの食事会があるということでした。何の集まりなのかと思ったら火の神様の集まりだというのです。牧師さんの奥様が丁重にお断りしてくださったようで私達ははずしてもらいました。地域伝道は本当に難しいなぁと実感しました。コリント教会のクリスチャンたちは私達と同じような多神教社会の中でイエス様への信仰を守っていたと考えていいと思います。
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キリスト教は一神教です。最近は一神教より多神教の方が平和的だという記事をよく見かけます。ロシアの侵略戦争を映像で見ていると本当にそうだなぁと思ってしまいます。でも多分一神教か多神教かはあまり関係ありません。多神教のローマやペルシャがどんなひどいことをしてきたか私達は知っています。同時に一神教のキリスト教国やイスラム世界がどんなひどいことをしてきたかも知っています。これは人間の罪の問題です。
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キリスト教は一神教です。だから偶像礼拝をすることを禁止しています。禁止というよりあり得ない事なのだと思います。何故ダメなのか?旧約聖書では不倫と同じだと表現しています。キリスト教の結婚式では永遠の愛の誓いがあります。神様の前の誓いです。だからそれを守る。私達の教会では洗礼を受ける時にⅠコリント15章を読みます。私達の罪のために死んで葬られ、三日目に復活された方を神の子、救い主、自分の主とするかと聞きます。神様の前で誓い契約を交わしたのです。この方以外のものを頼り心の拠り所とすることは不倫と同じことなのです。偶像礼拝は裏切りです。そして神様を何よりも傷つけ、悲しませる事なのです。
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今日の聖句では肉を食べるか食べないかが問題となっています。コリントの市場の肉屋さんで売られている肉はアポロだのゼウスだのハデスだのの神殿に捧げられたいけにえの肉だったそうです。みんなが捧げたいけにえの肉を市場におろして神殿の収入としていたのでしょうか。その肉を食べることは偶像礼拝にならないか?と気にしていた人たちがいた。何で気にしたかというと、使徒15章に異邦人教会が守るべき事が決められたという聖句があるのです。
❶使徒15:28−29
聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。すなわち、偶像に捧げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。
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こう通達を聞いたら私なら神経質になります。すごく気を付けます。逆に偶像の神なんていない。肉は肉。ただの肉に信仰を汚す力などないと割り切った考えと確信を持った人たちがいたのです。そういう人たちは気にする人を信仰が弱い人と思うでしょうし、割り切った考えの人は信仰の強い人と思われます。
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その強い人たちがパウロに相談の手紙を送ったのです。「自分たちには正しい知識がある。だから迷信から自由だ。肉を食べる事に問題はないでしょう。みんなに肉を食べるよう指導しましょう。」パウロのアドバイスは私達の信仰にとっても大切なことなので分かち合いたいと思います。
❷Ⅰコリント8:7~9
しかし、この知識がだれにでもあるわけではありません。ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです。わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。
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正論よりも思いやりが大切という事です。愛がなければ正論は人を傷つけてしまうということでしょうか。正論を言っても人は変わらないものです。自分で求めて自分で学んで失敗したりして、納得して変わることが出来る。無理やりやらせてもいい事はあまりない。私はこの事でたくさんの失敗をしてきました。ずっと多神教社会の中で生きてきた。クリスチャンになってもすぐには変われないものです。パウロは学者です。誰よりも知識がありました。でも人が内側から変わる成長を待つ事の大切さを知っていたのですね。特に信仰に関して、無理やりやらせることは罪に誘うことになってしまいます。
❸ローマ14:22-23
あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです。
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迷いながら、疑いながら奉仕する。これをしたら、神様に怒られる。捨てられる。受け入れてもらえなくなると疑いを抱きながらすることは私たちの心と信仰を傷つけ、疲れさせるのです。人が食べているからと言って、疑いながら自分も食べるなら、信仰と心が傷付くのです。
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当時、コリント教会でも多神教の神殿の宴会に堂々と参加していた割り切れたクリスチャンがいたのです。でもそれを見た人たちがつまずいて教会から離れてしまった、なんてことがあったのではないかと想像しています。当人たちはいいのです。でもそれで兄弟姉妹の信仰が傷付いてしまうならイエス様のみわざを壊すことになる。自分の正しさを示すよりも、兄弟姉妹をつまずかせないようにする。教会にとってはその方が大事なことだとパウロは教えてくれています。もしつまずく人がいるならばもう肉は食べない。パウロはそういう人でした。
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肉を食べる食べないとか、礼拝で楽器を使う使わないは私たちの救いや永遠の命には関わりません。でも私たちの交わりや愛には大事な問題なのだと学びました。そんな事にこだわっている人には付き合いきれませんという態度を取った事が何度もありました。強く後悔しています。8:1の聖句「知識は人を高ぶらせるが、愛は作り上げる」。この聖句は「知識は人を膨らませる、愛は人を大きくする」というニュアンスだそうです。知識は人を膨らませるだけ。中身がない。愛の行動は大変です。でも私たちを信仰的にも人間的にも大きくしてくれます。兄弟姉妹に仕えるとはどうすることなのか?愛するとはどうすることなのか?失敗を繰り返しながら、反省を繰り返しながら、あきらめず何度でも愛する事を学ぶのが私たちの人生です。 ❹ヨハネ13:34
あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
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