最近、結婚しなくてもいいという若者が少なくないのだそうです。新婚の頃、結婚5年目くらいまで、よく「結婚生活はどうですか?」と聞かれました。「いいですよ。楽しいです」と答えていました。妻がどう答えていたのかは聞いたことがありません。皆さんは結婚はいいものですよ、とお勧めできるでしょうか。
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今日の聖句を読むと、未婚の人は結婚しないで独身の方のままの方がいいんじゃないかと受け取られかねない難しい箇所です。ではここでコリント書との付き合い方を分かち合います。コリント書はコリント教会の具体的な問題をパウロに聞いた答えの手紙です。そこには一般的な原則と個別案件が書かれています。だから難しく感じてしまう。これは一般原則かな?個別案件かな?という見極めが大事になってきます。
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<教会の仕事>
では今日の聖句、「未婚の人たち」という言葉ですが、これは一般的な未婚の人ではなく、「教会でお世話しているみなし子の娘さんたち」という個別案件だそうです。初代教会は礼拝だけをしていたのではなかったようです。そもそも礼拝は教会の仕事ではないと思っています。礼拝は私たちのしたいこと。じゃ教会の務めは何かというと宣教と福祉でした。捨てられたり死別したりした親のない子供たちを、教会の余裕のある家庭で世話をする事、旦那さんに先立たれた奥さんたちの自立をお世話すること。これは新約聖書だけでなく、旧約聖書から大事にされてきたことです。
❶ヤコブ1:26-27
自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。
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当時、最も弱い立場の人たち。それがみなし子たちとやもめの奥さんたちだったからです。彼らが自立して生きられるように、しかもちゃんと信仰をもって生活することが出来るようにサポートすることが教会の仕事だったのです。私たちのグループの先輩たちはチルドレンズホーム、ナザレ園、せいじ園を作りました。初代教会からの務めをしっかり受け継いでいたことが分かります。この視点で私たち日立教会もこれからこの地域で何が出来るかを考えていきたいと思います。
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<パウロの優しさ>
もう一つの分かち合いはパウロの優しさです。当時みなし子の女の子たちが良縁の結婚が出来る事は難しかったと言われています。悲惨な人生を生きる娘さんたちも少なくなかったと思います。クリスチャンだということで結婚できない娘さんたちもいたでしょう。そんな娘さんたちにパウロは結婚出来なくても、イエス様に十分仕えることが出来るじゃないか。そういう生き方もあるよ。その方が幸せだよ、と慰め励ましている聖句でもあると思います。
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36節を見ると、欲望が我慢できなくなって誘惑に負けるくらいなら結婚した方がいいと言われている気がしますが、ギリシャ語の先生の解説によると、「情熱が強くなり」という言葉は「適齢期が過ぎた」という意味だそうです。適齢期を過ぎて不憫で可哀そうだと思うなら結婚させてあげなさい。という意味なのです。でも結婚できなくても不幸ではないよ。それも幸せな人生だよと語り掛けている聖句なのです。
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<終末を生きていた>
もう一つ、コリント書というよりも新約聖書を読む時に大事な視点があります。それが終末と再臨です。26節に「今危機が迫っている状態にある」、29節に「定められた時は迫っています」という聖句があります。この世界の終わり、神様の裁きの時が迫っている。すぐにでも来る。クリスチャンはそういう信仰で生きていたのです。コリント教会からの質問は「終末が迫っているので結婚させず、イエス様の再臨に備えさせた方がいいでしょうか?」ということではないかと思います。
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みんなもうすぐ世の終わりが来ると思っていたのです。その日のために準備していたのでしょう。人々の愛は冷める。教会は迫害を受け苦難の時代が来る。そういう中で結婚して家族を守ることがどれほど大変なことか。大変な苦労を背負う事になる。でも結婚するかしないかよりも大事な事がある。パウロはそう言っているのだと思います。
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16日の地震は大きかったですね。恐かったです。地震が治まった頃、ある方から「大丈夫でしたか」とLINEメールが来たのです。今、大変な病気の治療のために入院している方からでした。そのやり取りの中で「神経にトゲ刺す世紀になりました」と言っておられました。21世紀がこんな時代になるなんて想像していなかった。コロナの苦しみの中、各地で地震が起こり、火山が噴火し、北極の氷は溶け、アフリカでは歴史上最悪の干ばつが起こっているそうです。それなのに人間は戦争をしている。ウクライナだけじゃないんです。アフガニスタンでも、ミャンマーでも、イエメンでも、エチオピアでも内戦が起こっている。いつでもどこかで戦争が起こっているのです。北朝鮮もアメリカも核爆弾の実験をしている。この世の終わりの印じゃないかと思ってしまいます。その方はクリスチャンじゃないのですが「ひたすら祈るしかありませんね」とメールをくれました。
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きっともう世の終わりじゃないかという悲惨な出来事がどんな時代にもあったのだと思います。私の感覚で言うと、イエス様の昇天以来、私たちはずっと終末の時代を生きているのだと思います。本当はいつ世の終わりが来てもおかしくない。でも神様は一人でも多くの人が永遠の命、罪の赦しを得られるようにその時を引き延ばしておられる。私たちはその事を知っているのです。
❷Ⅱペテロ3:8-9
愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。
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こんな混乱した世界の中で私たちはどんな信仰を持ち、何をすればいいのでしょう。それが今日分かち合いたい事です。一つは祈りです。祈って何かが変わるのか?と言われることがあります。祈っても実際変わらない事もあります。でもこの祈りは周りを変えるための祈りではなくて、自分のための祈りです。イエス様の言葉を分かち合いたいと思います。
❸ルカ21:36
あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。
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自分の心や信仰を守る最善のことは祈りだと教わりました。いつでもイエス様の前に立てるように目を覚ましているための祈りです。不安や恐れに振り回されるのではなく、イエス様との絆を確認し強めるための祈りです。この世界の中で悩みや苦しみの中で、この祈りを支えにパウロたちは信仰を守り続けてきたのだと思います。もう信じ続ける事は出来ないと思う事があります。もうこの祈りを止めようと思うことがある。そういう時に祈ることが私たちの信仰の生命線となるのですね。毎日、決まった時間にイエス様に祈ることもいいでしょう。何をするにも祈りながらもいいと思います。夜眠る前には一日の感謝を捧げる事も心の安定になります。折に触れて祈る生活を心がけていきましょう。
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そしてもう一つは「リンゴの木を受ける」事です。パウロたちはイエス様の再臨を意識していました。イエス様が再臨されたらイエス様から「よくやった」と言って褒めてもらえる。そんな生き方をしていこうと教会は励まし合っていたのです。怒られないようにビクビクしながら生きるのではなくて、喜んでもらえるようにチャレンジして生きる。イエス様がいつ来てもいいように今日を生活する。それが初代教会からのクリスチャンたちの生き方だと分かるんです。今日か、明日か、明後日か。早く来てください。イエス様を待ち望む思いにあふれて生活していたのです。
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ドイツの宗教改革者ルターがこんなことを言ったそうです。「たとえ明日、世界が滅亡しようとも今日私はリンゴの木を植える」。ルターにとってのリンゴの木とは人を育てることではないかと思います。特別な事をするのではなく、イエス様が来られる日も同じ事をする、そう言える生き方を見つけて実践すること。それが地に足の着いた安定した凛とした生き方になるのだと思います。具体的にどんな生活すればいいのか?それは一人ひとりが見つけなければならないことです。ヒントになるのはイエス様が教えてくれた2つの戒めです。
❹マルコ12:29-31
「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
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私たちとってリンゴの木を植えるとは何をることでしょうか?主に求めていましょう。
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