信仰生活とはいい時ばかりではありません。山あり谷あり。死の陰の谷を行かなければならない時もあります。そんな時、私たちの信仰を支えたものは何でしょうか?若い時には、「自分の力で乗り越えたんだ」と思っていました。でも聖書は違う見方を私たちに教えています。
●Ⅰコリント15:10
神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。
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「神の恵みによって」。これが世界中のクリスチャンが共有する思いであり、感謝です。今の私があるのは神様の恵み。そして私が頑張れるのも神様の恵みということです。では神の恵みが具体的には何なのか?それを分かち合っていきましょう。
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今日の聖句は、コリント教会のクリスチャンたちどうやって信仰を持ったのかが記されています。信仰の原点ですね。洗礼を受けた時の事を覚えている人は多いと思いますが、福音を信じた時の事です。多くの場合は福音の話を聞いた時の事になると思います。教会のみんなと一緒にいて自然に信じられるようになったという人もいるかも知れません。イエス・キリストを信じようと思った時の事を思い出してほしいという内容です。
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ということで私たちも思い出してみたいと思います。で、多くの方はキリスト教の事を当然よく分からないまま受けちゃったのではないかと思います。私もそうでした。でもあの時の信仰も洗礼も100%完璧だったということ。そして今日まで私たちの信仰を支えてくれたのが何だったのか?それを分かち合いたいと思います。
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今日の聖句にはパウロが目指していた信仰が記されています。人に依存した信仰ではなくて、神様の力に依存した信仰を持ってほしいとパウロが頑張っていたのです。パウロは誰にもバプテスマを授けなかったらしいのですが、それは自分に頼らないようにという配慮だったのだと思います。
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コリント教会のクリスチャンたちは人に依存しない信仰を持つことが出来たのです。パウロは2つの理由を伝えました。一つは「十字架につけられたイエス様」のことだけを伝えたということです。パウロは当時の最高の教育を受けていたようです。きっと哲学でも弁証法でも難しい話は誰よりも得意だったはずです。その証拠にパウロの言っていることが高度すぎてよく理解できないとペテロが認めているくらいです。きっとパウロは理系ですね。
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なのにパウロは何とかの一つ憶えのように十字架につけられたイエス様のこと以外は話さなかったのです。感動的な話ではなく、哲学的な話でもなく、「十字架につけられたイエス様がキリスト」だということだけを語り続けた。
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アテネで宣教した時は「その話はもういいよ」と断られています。話を聞いてもらえない。もっと楽しくて人々の心をつかむ話や弁論や演劇はいくらでもあった訳です。十字架の話は好き好んで聞いてくれるような話じゃない。十字架につけられたイエス様がキリストだと言う信仰は証明できないし、人間の知恵、知識では説明できることじゃないし、説明しても分かってもらえるものでもない。大体の人には自分には関係ないとそっぽを向かれてしまう話。それが十字架です。それは今でも変わりませんね。受けがよくない。パウロは重々承知しています。でもそれでもイエス様の十字架の事だけを話し続けたのです。信仰が神の力に支えられるためです。
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2つ目はコリントで福音を伝えた時、パウロは衰弱して恐れに取りつかれていて不安だったと書いてあります。私たち説教者はどんなに落ち込んでいても、説教の時に出来るだけ元気で明るく話すようにしています。そういうものです。人気のある説教者は笑顔で大きな声で明るくはつらつと分かりやすく確信をもって話す人です。疲れ果てた顔で、不安げに話す説教者の話を聞きたいとは思わないでしょう。礼拝に来たらなんか元気がなくなっちゃったとなってしまいます。コリントに宣教に来た時のパウロはそうだったのです。
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多くの人がそっぽを向く十字架の話を、みすぼらしいボロボロの状態のパウロが説教した。演劇や講演会だったら「何だこれは!」とお客さんがみんな帰ってしまう状態だと思います。人の心をあおるようなものが何もなかったのに、福音をイエス様の救いを信じた人たちがいたのです。驚くことだったと思います。コリント教会の人たちは、優れた言葉や知識や思想で信じたのではなかったのです。これはもう聖霊の力としか言いようがない。
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頭だけで理解した信仰は別の魅力的な知識に触れると簡単に切り替わってしまうものです。でも御霊と御力によって与えられた信仰は簡単にはなくならない。御霊と御力の現れとは、聞いている人の心の中に確信が与えられる事。それは聖霊のわざなのです。聖霊の働きがなかったら、聖霊の支えがなかったらイエス様を信じることが出来なかったし、今日まで信仰を持ち続けることも出来なかった。
❶Ⅰコリント12:3
ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。
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私たちが福音を信じたあの時、よく分かっていなかったとしても、クリスチャンになる動機が不純だったとしても、聖霊によってイエス様を主と信じることが出来たのです。パウロはあなた方の信仰は聖霊と神様の力によって支えられているということを伝えたいのです。
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ある失礼な人から失礼なことを言われたことがあります。まじめで固くてつまらなくて眠くなる説教を聞いて信仰を持ち続けているのだから、日本のクリスチャンはどこの国のクリスチャンよりも信仰深い。確かに。
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アメリカのある教会の礼拝を見たら、説教の時に牧師が真っ赤なフェラーリに乗って説教壇に登場していました。印象に残りますよね。日本の説教も説教者も地味すぎて印象に残らないかも知れません。でもそれでも信仰を持ち続けている。これは聖霊と神様の力の現れだと誇ることが出来ます。私たちの信仰は人間的なものに依存しているのではなく、神様の力によって支えられているのです。
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私は毎日「神様。私を憐れんでください。私を励まして下さい」と祈っています。そうじゃないと不安や恐れで心が折れてしまいそうになるのです。神様は毎週日曜日、私を励ますように小さな喜びを与えてくれます。人との出会い。兄弟姉妹との交わり。もちろん聖書の言葉。音楽。本。毎週欠かさず、です。弱い私が失望しないように、心が折れないように、励まして恵みを与えて下さっています。それで私の信仰は支えられています。
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皆さんの信仰も聖霊と神様の力によって支えられています。その恵みを受けて、私たちも兄弟姉妹の信仰のために祈りましょう。聖霊がその人の信仰を支えて下さるように。私たちは誰かの救いを祈っています。聖霊がその人に働いてくださるように祈りましょう。説教者のためにも祈ってください。聖霊と御力の現れによって説教することが出来るように。日立キリストの教会のメンバーは神様の力によって最後まで神様を信頼し続けましょう。
❷Ⅰコリント1:18
十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。
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