「アバ、父よ」 ガラテヤ4:6
- 日立キリストの教会

- 11月16日
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三男が幼稚園の頃、ジョイフル本田によく行っていました。ある時、トイレに行こうとしていたら、三男がトコトコと走り出して、前を歩いていた人の手を掴んだのです。掴まれた人はびっくりしていましたが、三男もびっくりしていました。私と間違えたのですね。その人はとても背が高くてかっこいい人でした。私とは似ても似つかない人だったのですが、よく考えたら、幼稚園の子どもの視点で見えるのは足だけですね。「どうもすみません」とは言いましたが、「あんたには渡さないぞ」と対抗意識でいっぱいでした。何だかとても寂しかった思い出です。
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山梨県の教会に住んでいた時、近所の子供たちが教会に集まっていました。一緒に遊んで、イエス様の事を伝えてお祈りをしていました。子供たちに「お父さんになってくれ」と言われました。「よ~し。教会のお父さんになってやる」と気軽に答えていました。若かったとは言え、本当に無責任でした。
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日立教会に来ることになった時に子どもたちに別れを伝えました。子供たちの反応は胸をえぐられるようなものでした。ある子は「そうかぁ、そうかぁ、仕方ないなぁ」と言って泣いていました。ある子は「お前も俺たちを裏切るのか!」と怒りをぶつけてきました。ある子は何も言わず教会から去りました。本当に本当にひどいことをしてしまったと後悔しています。今でもその時の自分を殴りたい思いです。
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私も小学生の時に近所のおじさんの家に入り浸っていたことがありました。退職した校長先生でした。農作業を手伝って、ご飯をごちそうになって、一緒に遊んでもらって。家に帰りたくなかった僕には本当に暖かい場所でした。「おっちゃん、俺のとうちゃんになってくれ」と言ったことがありました。その人は厳しい顔をして「おっちゃんはお前のとうちゃんにはなれない。でもいつでも遊びに来い。負けるな。絶対に負けるな」と言ってくれたのですが、見捨てられたと感じてしまいました。二度とその家には行きませんでした。
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どんなに助けてあげたいと思っても、一緒にいてあげたいと思っても出来ない。他人だからです。あの人の子どもになりたいなぁとどんなに願ってもなれない。親子じゃないからです。
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今日の聖句は神様と関係なかった私たちが、神様の子となることが出来たことを教えています。神様の子になれなかったら、私たちがどんな状態だったかを教えているのがエペソ2:12です。
❶エペソ2:12【新改訳2017】
そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。
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洗礼を受けたあの時から、私たちは神様の子です。神様の家族になることが出来たのです。聖書には1000個くらい約束があるそうです。その約束は神様が私たちと交わした約束になりました。苦しい時、つらい時に神様との約束を心の支えに出来る。神様との約束を希望にすることができる。何故なら神様は約束を破りませんから。
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昔に聞いた話です。ナイアガラの滝を綱渡りする人がいたそうです。たくさんのギャラリーの中で一人で渡り切りました。拍手喝采です。その人が「人を肩車しても渡れると思いますか?」と聞きました。みんな「出来る出来る」とはやし立てました。「では私の肩に乗って下さる方はいませんか?」と声をかけたのですが誰も前に出ませんでした。そりゃそうです。でも一人の子どもが前に出たのです。そして肩車をしてナイアガラの滝を渡り切りました。すごい拍手喝采です。人々はその子に聞きました。「名乗り出るなんて勇気がある子どもだ。恐くなかったのか?」するとその子はこう答えたそうです。「恐くなかったよ。僕のお父さんは絶対成功するから。」
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「僕のお父さんは絶対に約束を破らない!」そんな神の子になりたいと思います。赦しの約束、救いの約束、癒しの約束、天国の約束、永遠の命の約束、聖書の約束を自分と神様との特別な約束だと信じる単純な信仰を求めていきましょう。
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最後に一つの証を紹介します。私は神様を冒涜するような失敗がありました(失敗だらけ、後悔だらけのクリスチャン人生です)。赦されない失敗だと思います。その事がずっといつも心に引っかかっていて、クリスチャンとしての喜びや自由を奪っていました。イエス様を裏切ったペテロのような気持ちでした。ふとした時に思い出してしまって後悔をかみしめて自分を責める事が10年以上続きました。もう頼まれても奉仕をする事は出来ない。自分には資格がないと挫けていました。
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最近、逃げずにごまかさずに神様に祈ったのです。「神様、あの時はすみませんでした。どうか赦して下さい。苦しいのです。どうか私を解放してください。Ⅰヨハネ1:9の赦しの約束にすがるしかありません。どうか私を憐れみ赦して下さい。」
❷Ⅰヨハネ1:9
自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
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それからしばらくして神様が赦してくれたこと、赦してくれていたことが分かったのです。ひどい事をした事実は残ります。でももう自分を追いつめてボロボロにすることはなくなりました。クリスチャンになる前は、謝っても赦してもらえませんでした。神様と関係がなかったからです。でも今は謝れば赦される絆を神様と持つ頃ができたのです。駄目な自分を通して神様の赦しと恵みを証したいと願うようになりました。
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イエス様が十字架の死と復活によって私たちが神様の子になれる道を作ってくれました。聖書の約束は神様と私の約束になりました。神様は約束を破りません。聖書の約束を支えにしていきましょう。
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最後にお祈りについて。お祈りはお願いだけじゃない。お願いがないと祈らないなんて、お金が無くなった時だけ家に来る子供のようです。神様は悲しみます。父に話すようにたわいないことも祈りましょう。父はそれを願っています。

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